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憲法の疑問

著 中里 和伸

定価 2,420 円(本体2,200円・税220円)

A5判 183頁 ソフトカバー
ISBN 9784824402752 2026年01月30日発行

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「著者からのコメント」
人が社会生活を送るにあたって「本音と建前」を使い分けることは大切なことであり、特に日本ではそうである。
筆者が大学生だった頃、キャンパス内の食堂で、インド人の留学生(先輩)が、大学に入学したばかりの同じ留学生(後輩)に対して流暢な日本語で、「これから日本で生活していく上で最も重要なことを教える。」と言うので聞き耳を立てていると、曰く「それは『遠慮』である。その人が『遠慮』してそれを言っているのかどうかを見極めることが大事だ。例えば、『結婚し新居を構えました』という葉書を受け取り、そこに『お近くにいらした際には是非お立ち寄りください』などと書いてあってもそれを真に受けて訪問するなど絶対にしてはいけない。」とのことで、これには妙に感心したことを今でも覚えている。この先輩のインド人は相当の日本通であると言えるだろう。
「本音と建前」を言い換えれば、物事の「オモテとウラ」であり、「本音」が「ウラ」に、「建前」が「オモテ」に対応している。
この点に関して、内野正幸は「人権のオモテとウラ」(明石書店、1992年)の中で次のように述べている。
「…人々が考えたり行動したりする場合に、オモテとウラを使い分けることが、よくある。たとえば、ある企業が、就職希望者を、部落の人とか女性にたいする差別的偏見によって、不採用にしたとしよう。この場合、企業の側としては、ウラのホンネをはきたがらない。採用しなかったオモテむきの理由が、用意されることになる。だから、オモテで、かっこいいことがみられた場合でも、ウラで、何か別のことが起こっているのではないか、と疑ってみることも、必要なのである。それとともに、ときには、これまで〝あたりまえだ〟と思っていたことを再検討してみることも、重要となるのである。つまり、オモテの〝常識〟を疑って、ウラから考えなおしてみることである。もっと広くいえば、疑いの精神が大切だ、ということになるのである。」(同書7頁)、「…〝新大陸の発見〟については、すばらしい世界史的なできごとだ、と評価されがちである。それは、アメリカ合衆国などの成立のきっかけとなった事件なのであるから、そういう見方も、自然に出てこよう。しかし、世界史のウラの側面にも、十分目を向ける必要があろう。つまり、〝新大陸の発見〟以来、ヨーロッパ人は、南北のアメリカ大陸で、征服活動を進め、そのなかで、先住民を非人道的に扱うことが多かった、ということである。先住民の立場から、〝ヨーロッパ人の侵入〟というコトバこそ、ふさわしいものなのである。」(同書9頁)、「私たちは、無意識のうちに、〝極東〟というコトバを使っている。これは、〝中近東〟というコトバとともに、ヨーロッパ人の視点からみた場合の言い方にほかならない。ヨーロッパからみれば、遠い果ての東とか、近い東とかいうことになるわけである。しかし、われわれ日本人が、日本のおかれた場所のことを〝果て〟と呼ぶのは、いかがなものであろうか。」(同書10頁)
このように、「オモテ」と「ウラ」の議論は汎用性があって非常に興味深く面白い。
そして、この議論を「人権」に置き換えてみるとどうなるだろうかということを筆者なりに考えてみると次のとおりである。
例えば、人権が従前よりも強く保障されるようになり、また、新たな人権が認められるようになれば、人権保障の程度や範囲も広がり、社会が快適になって個々人もそれだけ充実した生活を送れるようになる、という考え方がある。これが「オモテ」である。
これに対して、人権の範囲等を広げれば、その反作用として、その権利行使を受け入れる側にとっては義務の範囲が広がり、必ずしも良いことばかりではないということを意味する。これが「ウラ」である。
この具体例を挙げることに苦労はいらない。例えば、ある者の表現の自由を広く保障すれば、それを聞きたくない人にとっては「聞きたくない自由」が制約されることになる。このように、「表現の自由」といえば聞こえはよいが、それを聞きたくない人にとっては「騒音の自由」にすぎないのである。
また、昭和42年に制定された公害対策基本法に関して、いわゆる光化学スモッグが発生したこと等に伴い同45年の年末の国会(いわゆる「公害国会」)において、この法律の根幹をなす「経済の健全なる発展との調和(を図る)」という文言が削除されてしまった。これは一面(オモテ)では環境権に配慮したとは言えるものの、その一方(ウラ)でこれは企業側にとっては「公害防止運動に名をかりた企業撲滅運動」ともいうべきもので、商業活動に対する重大な制約とも言えるだろう(以上について、山本七平「『空気』の研究」文藝春秋、1983年、62頁、「月曜評論」昭和50年9月22日号「公害行政のおどろき」参照)。
また、この点に関連して、長尾龍一は、「Aの権利はBの義務であり、権利闘争は国民間のゼロサムゲームであるという事実は、もちろん覆い隠される。」(同「憲法問題入門」(筑摩書房、1997年)202頁)と指摘している。
このように、人権においても「オモテ」の議論だけではなく「ウラ」の議論も重要であるが、往々にして「オモテ」の議論だけが脚光を浴び、「ウラ」の議論には目が行き届かないことがあるといえよう。
さらに、憲法9条についてもこの「オモテ」と「ウラ」の議論があてはまる。すなわち、選挙時になると候補者や政党が掲げる「憲法9条を守って日本の平和を実現しよう」というスローガンを例に挙げると、筆者から見ればこれはあくまでも「オモテ」(建前)の議論である。
では、この「ウラ」(本音)が何かということを検討してみると、「戦後の日本に今まで戦争がなく平和だったのはアメリカの核の『傘』の中にいて憲法9条を字面通りに守らなかったことがその大きな理由である」とも言えるだろう。
この点に関連して、荒木和博はその著書「日本が拉致問題を解決できない本当の理由(わけ)」(草思社、2009年、229頁)において、「憲法九条などとっくに破られているのであり、憲法九条が破られているからこそ国は守られているのだ。憲法九条を守っていたら、国土は蹂躙され、国益は大きく損なわれていたはずだ。考えていただきたい。今の国民に『自衛隊は憲法違反なのでやめます』と言ったら、支持は得られないだろう。大多数の国民は自衛隊の存在を認めており、その役割に期待している。」と述べており、筆者もこれに同感である。
筆者は、一般の憲法の本では語られることがあまりない、この「ウラ」(本音)の部分について可能な限り注目するように心がけて本書を執筆した。
それが本当に成功しているかどうかは分からないが、憲法について関心を持っている方々にとって本書が何らかの参考になれば幸いである。

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